『シン・エヴァンゲリオン劇場版』

 3月初旬の公開から7週近くが過ぎた木曜日の夜8時50分。『アウトポスト』を観て以来約1ヶ月ぶりのバルト9で観て来ました。いまだに上映が続けられている『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』の興行収入記録には全く及ばないものの、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」シリーズの過去三作に比べてダントツの興行収入と言われています。それでも、公開から1ヶ月以上を経て大分人気にも翳りが出て来て、『アウトポスト』の際にもそれほどの混雑が感じられなかったので、満を持して鑑賞に臨むことにしました。

 実際、後で知ったことですが、鑑賞当日の週には週間興行収入ランキングで、1位を『名探偵コナン 緋色の弾丸』に譲ったとのことで、相応の翳りは明かのようです。ちなみに映画サイトによると『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』は10位でした。(土曜日放送の「王様のブランチ」では多少順位が違ったような気がします。)

 それでも、1日に8回もの上映が為されていて、8時50分からの回の後にも、12時丁度と午前1時15分からの回が存在しています。ギリギリ終電前に上映が終了する8時50分からの回では、40人以上は観客がいて、バルト9のロビー階の137席の小型シアターの座席稼働はまあまあそれなりでした。客層は辛うじて半数強が男性で残りが女性、年齢は全体の8割近くが20代から30代前半と言う感じでした。男性の中では私が最高齢だったかもしれません。同性にせよ異性にせよ、二人連れが非常に多いのもちょっと珍しいように思えました。

 この映画をどうして観に行くことにしたかと言えば、単純にコンプリートのためのことです。「達成できなかった物事や中断・停滞している物事に対して、より強い記憶や印象を持つという心理現象」を「ツァイガルニック効果」と行動経済学では呼ぶようですが、単純にそれかもしれません。コンプリートさせることにも、何か積極的な「あと一つで完成!」的な思い入れがある訳でもなく、寧ろ、「値が下がった株でも損切りできない…」と言った感じで、「全然新作にして最終作に期待していないものの、ここまで観たから仕方なく観ておくか…」というような心境です。行動経済学で言うと、「ある対象への金銭的・精神的・時間的投資をし続けることが損失につながるとわかっているにも関わらず、それまでの投資を惜しみ、投資がやめられない心理状態」を「サンク・コスト効果」と呼ぶようなので、こちらの方が近いようにも思えます。

 いずれにせよ、話題にもなっていて、まあ完結を観た方が良いかという程度の非常に後ろ向きな動機で観に行くことにしました。私は『シン・ゴジラ』の感想で以下のように書いています。

「 あと一作で完結すると言われている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』のシリーズの一応のファンだと自分のことを思っています。第1作と第2作の間にはほぼ2年が空いており、第2作と第3作の間は3年が空いていて、それから既に4年が経過して、完結編が出る見通しさえ発表されていません。こちらの方の進捗も放りだして、庵野秀明は一体何をやっているのか。この作品の話を耳にした際に最初に思いついたことも、そして今尚、この作品について、何かを語れと言われても、この苛立たしさです。「やることやれよ、バカ野郎」と言う気持ちを押しのけるほどの何かは観た後になっても得られませんでした。

 パンフレットを読むと、この点に関する弁明が挨拶の中にあり、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』で鬱になったことなども合わせて書かれていました。それを読んだ所で、「鬱になったらエヴァは作れなくなっても、ゴジラは作れるのかよ。随分都合のいい鬱だな」と突っ込みたくなるぐらいに思えます。(日本の実践催眠術の第一人者の吉田かずお氏によれば、鬱は催眠で簡単に治るとの話もあります。)

 まして、観る前の段階で、この作品の興行収入が(何かの)記録破りであるなどと聞いたり、「凄く面白い!」などと聞けば聞くほど、苛立ちが募りました。ただ、「これぞ、日本映画の面白さ」などと聞けば、ただ苛立っているばかりではなく、中身を観てその上で批判できるようになるべきかと思い、仕方なく観に行くこととしてみました。」

 この『シン・ゴジラ』の感想を書いたのが2016年です。仮病や詐病さえ疑われそうな鬱は、その後もどんどん使いまわされ、『シン・ウルトラマン』の制作もガンガン進められて、本作の上映前にトレーラーが流れていました。さらにもう一つのトレーラーがロビーの巨大モニタに映し出されていた『シン・仮面ライダー』です。『シン・仮面ライダー』に至っては構想6年などとネットに書かれています。本当に随分都合の良い鬱もあったものです。

 さらに腹立たしいことに、今回のパンフの冒頭の挨拶部分には…

「そして、映画としての面白さ、即ち脚本や物語が僅かでも面白くなる様に
 作品にとって何がベストなのかを常に模索し続け、
 時間ギリギリまで自分の持てる全ての感性と技術と経験を費やしました。」

とあります。信じがたい言葉です。「シン」をつけては過去の素晴らしい特撮作品群をリブートして回っているのに、「常に」である訳はないように思えます。第三作の後に始まった『シン・ゴジラ』の企画は本作を追い越し、かなり後に始まった『シン・ウルトラマン』もトレーラーがバンバン流れる所まで漕ぎ着け、『シン・仮面ライダー』でさえ構想6年だそうです。「常に模索し続け」という日本語表現の意味が私の知らないうちに随分広い範疇を指すようになったようです。多分、この第四作も旧タイトルシリーズのままではやる気が起きなかったので、敢えて「ヱヴァ…」ではなく「シン・エヴァ」に戻して、「シン」シリーズに紛れてやる気を起こしたと言う自己欺瞞的絡繰りなのかもしれません。

 このような状況であること自体が「エヴァ」ファンをコケにしているように私には感じられていたので、余計のこと、前述のように、消極的な鑑賞動機しか持てませんでした。チラリと少しずつ、本作のトレーラーも公開されてきましたが、それが1分を超えるようになった当たりのものを観た際には、「もういいから、『これが第四作です。第四作は1分少々の作品になりました』って言って、何でもいいからさっさとケリをつけろよ。どうせ、詐病で他の作品つくって時間かけているくせに」と自然に思えるぐらいでした。

 それでも、どんなものかをキッチリ見極めるべきかと思い、半日以上の水断ちをして、155分の作品の鑑賞に挑みました。(仮にトイレに行くことになって見逃しが生まれ、もう一度見なくてはならないようなことになったら、最悪です。)おまけにかなり着込んで僅かに汗ばむぐらいにして、尿意を催さないようにしました。

 一応原理的にはカラダまで“作って”観てみた本作ですが、予想通り面白くありませんでした。生死が判然としなかった昔の学友達が現れ、加持とミサトの子供まで登場しますが、彼らの存在が物語の展開を非常に冗長にしています。おまけに、よくあるパターンですが、最終回に向けて残った脇役キャラが、一斉にベラベラと謎解きやら辻褄合わせを語り出すのです。それが今までそれなりに語る人間であれば良いのですが、モジモジしていることが多かった委員長も語り出すどころか、あの無口で「ああ」などと横柄な返事しかしなかったような碇ゲンドウがラストに胸の内を延々と語り始めます。

 カットこそ多いから一応観ていられますが、往年のタルコフスキーの作品か何かのように、ないしは、どこかの小劇場でやっているアングラ演劇の素人台詞のように、ダラダラと語りが続くのです。一応、大体の伏線などは回収されますし、納得感がそれなりには湧きます。しかし、オリジナルのテレビシリーズに比べて、明らかにダサくなっているように私には思えてなりません。

 そう思える一つの根拠は、この謎解きを執拗に行なう点です。テレビシリーズの方では、到底回収しきれないような伏線の嵐で、実写のテレビ・ドラマ番組なら当時『ツインピークス』などもありましたが、謎が解けずすっきりしないことがウリになっている物語が世の中に登場し始めた頃に、SF系のアニメで謎だらけの展開を打ち出したエヴァの魅力は断トツでした。その中で人類補完計画はあっさり一回ぽっきりのものとして描かれ、その核にいたシンジにあっさり流れを否定されて収束します。

 ところが、今回謎解きされたところによれば劇場版のシリーズでは人類補完計画は第一波から第三波まで繰り返さねばならないなかなか面倒なものになり、碇ゲンドウと冬月はその実現に向けて裏の裏を読む様な周到な計画を立てていたという話になっています。これがまたこじつけ感満載なのです。総じて謎解きやら辻褄合わせを必死にやればやるほどオリジナルが持っていた魅力がどんどん褪せて行ってしまったように感じられます。

 もう一つの根拠が、クリシェの青春ドラマになってしまっていることです。強大な抗うべき存在として立ちはだかっているはずの碇ゲンドウはテレビシリーズではレイに拒絶されてただ朽ち果てるだけですが、今回はいちいち亡き妻に対する執着を延々と語り、それが故のすべての犠牲であったと告解します。それを乗り越えて、大人になったシンジは、父を諭すまでになり、最後は元に戻った世界の駅ホームでマリにどこかの薄っぺらい大学生でも言わないようなセリフを吐く大人になって、清々しく、終演に向かいます。まるで『君の名は。』や『天気の子』のような清々しさです。そこには、テレビシーズの結末でアスカにすがるシンジが「気持ち悪い」と一言言い放たれて終わる残酷な現実が存在しません。まるで空虚なファンタジーになってしまっています。

 特にシンジの変化は異常で不自然と言って良い域に入っています。全人類を破滅の一歩手前まで追いやった責任からグレて、そのまま本作の前半では精神を病んで自閉症的な症状まで呈しています。ところが、突如、やる気を出し始め、ヴィレ側が打つ手なしの状態に追い込まれそうになった時に、「僕が初号機に乗りますよ」と冷静にミサトに提案しに現れたりします。そこから基本的にマリとシンジの物語になりますが、ことが終わった後に、先述のような薄っぺらい新卒サラリーマンのようなシンジに変貌するのです。

 人間は変わるものだと私は思っていますが、あまりに不自然で、スカスカのシンジがスカスカの青春物語を演じているようなエンディングには、「まあ、やはりこの程度か」と思わされました。ちなみに第二作から14年を経た第三作と第四作の世界で、元々大人だったリツコやミサトは相変わらずの性格と相変わらずのリスク・テイカーぶりで全く変化がありません。敢えて言うなら、おとな気ないままです。ところが、トウジを始めとする元子供達は、やたらにヒネ媚びていて、変に人生哲学を語ったり、分かったような口をききまくります。そうでなくては14年間の時間経過の中での世界的被災を語り尽くせないのかもしれませんが、わざわざ全員生かしておいて、全員妙に仙人のように達観させ、全員村の共同生活におけるリーダー的な役割を持たされているのには、ヤラセ感満載で辟易させられました。

 そしてこれら二点の結果、物語に緊迫感が乏しくなってしまっています。テレビシリーズのラミエルに対するヤシマ作戦やイロウルのハッキングに対応する時間との闘い、イスラフェルに対する2点同時の荷重攻撃、そして、ゼルエルに対する絶望的な戦闘など、多くの使徒との戦いが容赦がなく観る者に緊張を強いるものでした。それが今回の冗長な解説や生温く人生を達観した人々の存在のせいで、失われてしまっています。多くの使徒も個性がなく、量産型の(それもテレビシリーズの弐号機を打ちのめしたトカゲ的な連中どころではなく無個性な量産型の)ものがワラワラと出てくるだけで、折角の戦闘がただのシューティング・ゲームもどきになり果ててしまっています。

 映像的に見ても、第一作や第二作の使徒のフォルムの斬新さは感嘆に値するレベルでした。ラミエルの硬質な表面に写り込む青空や、サハクィエルの美しいフラクタル上の触手(?)、マトリエルらしき使徒の水面に突き刺さる足先など、デザインとその表現において見入るような要素が幾つもありましたが、今回は全くそのようなものが見当たりません。テレビシーズの最終話の映画完結版に登場する巨大な綾波レイのような「存在」が今回の第四作にも登場しますが、単にグロテスクになっているだけではなく、変に表情に影があり薄汚く見えます。

 或る意味、このようなダサさは、(直上のフォルムなどのデザイン面の話を除いて)劇場版のシリーズが「最近のアニメの小品」のようにこじんまりとまとまったスッキリ爽やか作品に堕してしまったということによるのかもしれません。

 私はテレビシリーズでは綾波レイ(Ⅱ)が好きで、今でもTシャツその他で綾波レイ(Ⅱ)柄を愛用していますが、劇場版の新シリーズになってから、設定に違和感が湧き全く好感が持てなくなりました。アスカに嫌悪感が湧くのは前からですが、そのアスカが劇場版では人間でさえなくならざるを得なくなったことが分かって溜飲が下がったこと、そして、劇場版から登場したマリが結構気に入ってきましたが、今回エンディングに向けてかなり重要な役を担わされていたこと。この二点ぐらいが今回の第四作でまあまあ喜べたことです。(マリ役の声優もパンフの中で「最後の最後にこんなに重要な役を任されるとは…」と語っているようです。本当にそうだと思います。)

 ちょっと好きになってきたマリが自分のバストのことを「いいチチ」とシンジに言うなど、かなり活躍してくれるのが少々楽しめた程度では、全然作品としての魅力を感じませんが、前述のコンプリート感を追求するためにも致し方なくDVDは買いであろうと思います。